2年前から通信制の美大に通って写真を習っている。
通おうと思ったきっかけは、いろいろあるのだけれど、自分の写真に限界を感じたのが一つ。
もう一つは、単純に僕は大学生という立場が好きなのだ。
僕は高校を出て就職し、そのあと働きながら通信制の大学に通い、大卒の資格を取った人間だ。
高校時代は勉強が大嫌いだったけれど、通信制大学の勉強は楽しかった。周りも僕と同じ高卒の社会人で、いろんな事情があって大学に行けなかった人が多かった。
みんな真面目でモチベーションが高く、だから教授も熱心に教えてくれた。その楽しかった記憶があったから、写真がうまく行かなくなった後、「美大にでも通うか」とけっこうあっさり決めた。
僕は写真コースに在籍しているので、普段は写真に関係する科目しか取っていない。
ただ、課題がどうにもうまく進まないので、気分転換もかねて、デッサンの授業を取ってみることにした。
実は写真コースでも必須科目にデッサンがある。最初は「写真なのになぜ?」と思って、必須科目にする理由がわからなかった。
授業に行く前に、教科書を読んでいたら、面白い記述に出会った。
僕らは、普段、モノを見るときは「名称」で見ている。
「イヌ」なら「イヌ」、「電柱」なら「電柱」、山でも川でも鳥でも花でも、それぞれを見たとき、その見た瞬間に、モノの「名称」が頭に浮かぶ。
でも、それは本当にそれを「見た」ことにはならない。なぜなら、「名称」が出てきた瞬間、それは過去の記憶やイメージ、カテゴリー、類型、そんなものの影響を受けるからだ。
同じモノでも、それぞれに個性や特徴がある。自然にあるものならばなおさらだ。しかし、「名称」にとらわれていると、そのそれ「自体」を見ることはできない。
そのもの「自体」を見るためにはどうするのか。よく「見る」練習をするしかない。それに一番効果的なのが、「デッサン」なのだ。
という内容だった。
ネットの写真をほとんど見なくなった代わりに、作家の写真集をたくさん買うようになった。
写真集は本を買うと思えば高いけど、レンズを買うと思えば安い。
写真集を見れば見るほど写真は変質していく。おそらく、良い方向に。
「見る」という行為は、無意識で行ってしまえるだけに、怖いのだ。
パッと見て、分かった気になってしまう。すぐに良しあしを判断したり、レッテルを貼ってしまえる。
けれども、よく見ると、ほんの小さな何か、ほんの少しの何かが、そこにあったりする。
それを見つけて、取り出すことで、新しい考えや新しい自分に出会える。そんな可能性だってある。
アートの社会的役割、なんて大きなことを言うつもりはないけれど、僕らが日常生活で見過ごしてしまう「何か」を、写真を撮ったり、あるいはデッサンしたりすることで、再発見できるのだろうと、僕は思う。
人間はおおよそ6~8頭身。7頭身が多い。へそは半分より上。足の付け根は半分より下。
頭は意外に大きい。足のサイズと頭のサイズは同じ。
人間の目は顔に、そして目に良く反応する。しかし実際のサイズはイメージとは違うので、正確に長さを図らないと、描いてもバランスが狂う。
絵など描いたことがない僕のような人間には、何もかもが新鮮だった。
なるほど、人体。なるほど。
今回はヌードのデッサンだった。今までも「美大と言えばヌードのデッサン」みたいなイメージが自分にあって、それがなぜかわからなかった。
やってみてわかった。服着てると、体描けないのだ。
服につられて、バランスが狂うのだ。
逆に裸が描けると、そこに服を乗せていくだけだから、描けるのだ。
二日間、朝から夕方まで合計で80枚くらいデッサンをした。最後は腕が痛くなった。
人間は、美しいな、と思った。
モデルが、というのではなく、単純に人間は、肉体として、生成物として、美しいバランスをそれぞれが持っている、美しい生き物なのだなと思った。
帰りの電車で、向かいに座っている人の骨格が見えた気がした。
使用機材
SONY α7II
SIGMA 70mm EX DG Macro